祟りと呪いの違いとは?
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「祟り」と「呪い」という言葉から多くの人は怨霊や災いといったことを連想してしまいますよね。どちらの言葉もあまり良いイメージとは言えません。イメージ的には同じような祟りと呪いなのですが、じつはこの2つの言葉には微妙なニュアンスの違いが存在するのです。ここでは祟りと呪いの違いと共通点について紹介しましょう。
祟りとは?
祟りと聞くと「神様の祟り」「お稲荷さんの祟り」ということを思い出すのではないでしょうか?じつは祟りは、神様に関係する場合に使われる言葉なのです。
祟りは、神様と人とのかかわりの中で「神様をないがしろにした」など人が何らかの引け目を感じているときに起こった異常気象など人に降りかかってくる予測できないような災難を「神様の祟り」と表現しているようですよ。さらに非業の死を遂げた人々の怨念がもたらしたと考えられる自然現象なども祟りとして恐れられているようです。
「祟り」は日本に古くからある神道の考え方のひとつといえるかもしれません。そのため、火山の噴火や水害などの大きな自然災害の時は、神様の怒りを鎮めるために多くの神社が建立されたといいます。怨霊となったと考えられた歴史上の人物もまた神様として祭っていますよね。
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呪いとは?
「呪い」とは、「祟り」と違って人が人におこなう邪悪な行為といえます。たとえば「藁人形の呪い」といわれる呪いは、ある人が恨みを持つ相手に報復するために呪いをかけるというもの。つまり呪いとは人が人にかけるものといえます。ただ呪いは、自分に返ってくる可能性があるともいわれていますよ。いわゆる「呪い返し」ですが、相手を呪うなら自分に返ってくることもあるということを戒めているのかもしれませんね。
祟りと呪いに共通点はあるの?
祟りと呪いには違う特徴がありますが、じつは共通点もあるといえます。それは世界各地に「祟り」や「呪い」といわれる伝承がみられるということ。そして多かれ少なかれ宗教と大きくかかわっているということです。国や地域が変わっても呪いや祟りを恐れる気持ちは同じということですね。
日本の歴史上の3つの祟り
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日本には崇徳天皇、菅原道真、平将門という3人の歴史上の人物に関する「祟り」の伝承があります。いずれも生前に不当な扱いなどを受け憤死したといわれる人物ですよね。ここではこの3人にまつわる祟りに関する伝承について詳しく解説しましょう。
祟り1・平将門の祟り
平将門は、平安中期に生まれました。貴族の支配が一般的であった当時、平将門は下級貴族にも任官されることなく、父の支配した土地を相続。叔父などの親族との戦いでまだ20歳ほどの将門は自らの地領を守ったのでした。将門の武勇は地領だけではなく関東一円に知れ渡り、当時、貴族による圧政にあえいでいた庶民にとって救世主のように思えたかもしれませんね。
関東一円を手中に収めた将門は「新皇」と名乗っています。将門が新皇と名乗ったことは、クーデターとみなされ懸賞金がついた将門討伐の命が下されました。これにより将門は関東で首を落とされ、京都でさらされることになります。
このとき将門の目はなかなか閉じなかったとか。その後目をカッと見開き、関東へ飛んで行ったとされ、その首が落ちたところに「将門塚」が作られ、将門の霊を慰めることとなりました。
将門塚は、都心の一等地にあるためこの地に様々な開発計画が持ち上がりましたが、不慮の事故などによって中止となっています。これが将門の呪いといわれている事象ですね。
祟り2・菅原道真の祟り
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菅原道真というと「学問の神様」として知られていますよね。今では受験前になると多くの受験生が訪れていますが、じつは菅原道真は、朝廷での権力争いに敗れて太宰府に左遷されたのです。
道真は左遷されてから2年後に自分を陥れた人々を呪いながら死んでいったそうですよ。道真の死後、京都では道真を陥れた藤原時実が急死、後醍醐天皇と皇太子もあいつで死亡するなどの凶事が続きました。そして雷が宮中に落ち道真の政敵だった貴族がなくなりました。
このことから菅原道真は雷神といわれ、「天神さま」と呼ばれるようになったそうですよ。宮中で起きたこれらの凶事はすべて菅原道真の祟りとされました。また、道真を慕った梅の木が太宰府に飛んでいったという伝説もあります。