スピリチュアル見えない力霊・霊感

祟り神とは?元は何?日本三大怨霊の正体や祟り神を祀っている神社などを稲荷神をお祀りしている筆者が解説

祟り神と言うと、とても怖いイメージが先に来てしまうでしょう。しかし本当はとてもパワーがある存在なのです。日本三大怨霊とされる神の正体も元は人間。人から神になった経緯も、本当はとても辛い出来事などがあったことが原因になったり、今とあまり変わらないことが発端のこともあるのです。

そんな恐れられている神様のことを、伏見稲荷大社とご縁があり勧請した稲荷神をお祀りする筆者が解説させて頂きます。

三大怨霊その1:代表格「平将門」

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平将門の名前を知らない人はいないのではないでしょうか。それも一番怖い祟り神として知られているでしょう。

そんな平将門ですが、祟り神や怨霊と言われるようになったのも理由があるからなのです。どんなことがあり怖がられるようになってしまったのかを解説して行きます。

なぜ平将門は怨霊となった?

平将門は平安時代中期の関東の豪族で、桓武天皇の血筋を引くような高貴な人なのですが、親族争いがあったり将門自身が3人の人を殺害したこともあり捕らわれてしまうのです。捕らわれた将門は、後に朱雀天皇が元服する際の恩赦で自由の身になりますが、藤原玄明が税金不払いの件で将門に助けを求めたことで、常陸国司と対立することになり将門の乱が勃発勝った将門は朝廷の敵になってしまいました。

将門の力は勢いを増し民衆をも味方につけ自らを親皇と名乗るようになります。気に入らない朝廷は将門の討伐を決意呪殺をするために祈祷をしましたが一切効果は出ず、そしてとうとう将門を討ち取った者は身分を問わず貴族にすると通達されたのでした。

やがて将門は恨みを持っていた者の矢が命中し討死。無念の死となった将門の首は平安京の七条河原に運ばれ晒し首となったが、何ヵ月経っても生きているかのように目を見開いたままで腐らず夜な夜な「斬られた胴体はどこにあるのか持って来い。首を繋いでもう一戦交えよう」と叫び続けていたそうです。それを歌人の藤六佐近が見て歌に詠むと将門の首は笑い出して関東目掛けて高く飛んで行き、力尽きて落ちた所が将門の首塚がある東京の千代田区大手町なのでした。

そう言うことがあり、将門は怨霊として伝えられることになったのです。

どこに祀られてる?【神田明神】

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将門の首の飛来地とされるのが、神田明神が創建された東京都千代田区大手町。

あまりにも天変地異が頻繁に起こり、疫病も流行したので将門の祟りなのではないかと噂された為、1309年に荒れ果てた塚の整備と供養が執り行われ、その御霊が神田明神に奉祀されたと言うことです。明治に入ると神田明神から謀反人の将門は祭神から外され境内摂社に還されましたが1984年に本社祭神に復帰をしました。

ご利益は?【勝負運の向上】

色々とあり神田明神の祭神に落ち着いた平将門ですが、やはり力は強いものとなります。そんな将門の力を味方につけると、どんなことにご利益があるのでしょうか。まず首塚や神田明神に参拝すると特に勝負運が向上し勝ち運が得られるようです。どうしても勝ちたいことがあったり、仕事運向上、学業成就、厄除けなどに特にご利益があると信仰されています。

どうしても叶えたいことがあった場合、真剣に参拝をしてみると良いかもしれませんね。

三大怨霊その2:まさかの天皇も「崇徳天皇」

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崇徳天皇の名前は、あまり聞いたことないのではないでしょうか。この崇徳天皇は平安時代後期に生まれた高貴な人で、なんと満3歳で日本の第75代天皇として即位したと言うのですから驚きます。

しかし後に弟を推す人物によって譲位を迫られ弟が天皇になり崇徳は上皇に。崇徳院と呼ばれるようになりましたが、天皇となった弟(近衛天皇)は病弱で17歳で崩御し、後継者として最有力だったのが崇徳院の子だったのですが、進むことはありませんでした。

なぜ崇徳天皇は怨霊となった?

保元元年(1156年)に朝廷が後白河天皇派と崇徳上皇派に分裂したことから「保元の乱」が勃発します。この5月に鳥羽法皇が病気で倒れ7月に崩御。直前に崇徳院は見舞いに行くが対面は許されず、挙句に法王は亡くなる前に「自分の遺体を崇徳院に見せないで欲しい」と言いつけており、なぜ鳥羽法皇はそんなことを残したのかと言うと、近衛天皇が崩御したのは崇徳院に近い者の呪詛が原因と信じていたからなのでした。

それを知った崇徳院は憤慨。ほどなくして崇徳院が反乱を起こそうとしていると言う噂が流れ、軍を集めることを停止する命令が出されます。これに危機感を抱いた崇徳院は少数の側近と共に如意山に逃れ、剃髪をして投降を決意し、仁和寺に出向いて同母弟に執り成しを頼んだが断られ、讃岐国に配流されることになりました。

配流後の崇徳院は軟禁生活をしながら仏教に傾倒。写本作りをし、完成物を京の寺に納めて欲しいと朝廷に差し出したが、後白河院は写経と偽って呪詛の文言でも書かれているのだろうと疑い送り返したのです。激怒した崇徳院は舌を噛み切り、写本に「日本国の大魔縁となり皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向す」と血で書き、その時の姿はまるで夜叉のよう。爪や髪は伸び放題で、崩御後蓋を閉めた棺からは血が溢れ出したと。

保元の乱の終結後、崇徳院は上皇と言う身分でありながらも罪人として扱われ、崩御後も変わらず、葬儀は国司によって行われたが朝廷は崇徳院の存在すら無視死してもこのような対応をされたことで怨霊化してしまったのでしょう。

どこに祀られてる?【白峯神宮】

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現世にとても強い恨みを抱いて世を去った崇徳院。崩御後に立て続けに災いが起こるようになります。崇徳院の呪いが現実となったと言って良いでしょう。天皇家と京都に様々な不幸が襲い掛かります。崇徳院を冷たく扱った朝廷の人間も次々命を落として行きました。そのことで精神的に追い詰められた後白河院は、怨霊の魂を鎮めようと崇徳院廟を設置します。

後に明治天皇が崇徳院の御霊を京都に帰還させ、怒れる魂を鎮めさせるために白峯神宮を創建しました。崇徳院は死してかなりの時を経て、やっと京に戻れたのでした。

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