スピリチュアル見えない力

障害は前世に関係する?障害をもって産まれた5つの意味・生き方、考え方を仏教信仰者の筆者がスピリチュアルの観点から解説!

「私が障害あるのは前世のせいじゃないの?」「この子の前世のせいで障害をもって産まれたんじゃないの?」と、前世を疑い苦しんでいる本人・ご家族の心の悩みが少しでも解消できますように。手・足・目・耳・鼻・口(言葉)各部位に障害をもって産まれた意味、障害の不の概念をひっくり返すような生き方・考え方を仏教信仰者の筆者がお釈迦様の知恵を用いてスピリチュアルの観点から説明します。
※決して障害のある方への偏見や差別をするような内容・宗教の勧誘ではありません。

障害があること「苦」なの?

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生まれつき障害のある人を私たちは、心のどこかで不自由そうだから「障害者は健常者が助けてあげなければならない」などメサイア的感情・偏見・差別で考えていたことはありませんか?確かに物理的に不自由な事は多々あり支援も必要なこともあるでしょう。しかし元々障害のある人は自由さ不自由さを考える選択肢もなく最善の策で生活されています。

魂で生きることを目的として考えた時それら障害は本当に「苦」なのでしょうか。

手・足・目・耳・鼻各部位の障害は前世と関係ある?意味は?

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もしも前世に関係あるとしたら、前世の時点で手があることで生じる苦・足があることで生じる苦、その障害部位で生じる苦の悟りを開いており現世で修行する必要がないという理由で障害をもったとする可能性があります。この世で起きる全ての出来事には意味があり、それぞれ考えられる意味を紹介しますのでネガティブにならずに読んでみてくださいね。

「手」:不自由な手は神の手

手が不自由なことで「触る」「握る」「叩く」などの動作を諦めることができます。また触れて認識すること・何かを持つことなどの動作に依存することもありません。目をつぶれば感覚と感性で、脳・心内で合掌をすることもハイタッチすることも可能なのですから。そして手があることで触りたくないものを触る苦、嫌な感触を味わう苦、何かを一生懸命掴む苦など一切なく過ごすことができるのは前世の良い行いから神仏の慈悲で与えてもらったものでしょう。

もしかしたら不自由な手は神の手であり現世で使用できないのかもしれません!

「足」:現世での苦行が必要ない

足が不自由なことで「歩く」「蹴る」「立つ・座る」などの動作を諦められます。あの有名な空海は瞑想で様々な場所へ旅をしたと言われ、その場に足を運ぶ必要がないのです。足が不自由な人は山伏のように山を歩かなくても、四国遍路のような苦行をしなくても前世でそれら苦の悟りをひらいていたのでしょう。魂レベルが高い人を意味するのではないかと考えます。生きていく中で如何に諦めるかが大事になりますが、それがどれだけ難しいことか…

「目」:真実の目が優れている能力者

目が不自由な人は「耳・鼻・その他」で美しいものを研ぎ澄まされた感覚と感性で一層楽しめるように神仏の愛で与えて頂いた意味のあることでしょう。この世の目で見えるものだけが真実だと限りません、本心(核)に迫るとき、耳で見て判断することができる人間はどれだけ現世にいるでしょうか?耳で見ることができる能力者は魂で人間を見ることができる真実の目が優れています。前世は優れた人だったでしょう。

「耳」:前世は魂の鍛錬者

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耳が不自由な人は「目・鼻・その他」で音を感じる感性と感覚が優れています、聴きなくない音を聞く苦、人間同士の愚痴や悪口・汚れた言葉を耳で音として聞く苦がないのです。耳を塞がれることは、目を塞がれることよりも孤独と暗闇を強く感じることがあります。それは人間の魂の本能で「耳で見よう(感じよう)とする」からなのです。その恐怖に打ち勝つことができるのは前世から続けられている己の魂の鍛錬の成果だと思います。

「鼻」:清らかな世界で生きる天に近い人

鼻が不自由な人は「目・耳・その他」で臭いを感じる感覚・感性が備わっており、真実を魂で感じることができるのです。前世と関係あるとしたら非常に心清らかで繊細な人だったのではないでしょうか。臭いたくない香りを臭い心が汚れる苦、忘れたい人を臭いで記憶する苦などを環境次第では感じず清らかな世界で生きることを許された天に近い人でしょう。

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